前回、紹介したウォーターハウスについて、もう少しだけ補足したいと思います。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse)は、1849年ローマで生まれました。両親が画家だったため頻繁にイタリアに滞在していたためで、国籍は英国です。1870年にロイヤル・アカデミーに入学してからは、古代史に題材を取った作品でアカデミーから高い評価と信頼を得ましたが、後期は文学や舞台をテーマにしたラファエル前派的な作品も手がけるようになりました。
画風としては、リアルな人物描写と、柔らかい光の演出などが特徴ですが、もっとも象徴的なのは細部にまで精密に書き込まれた背景美術でしょう。あたかも一枚の写真のような仕上がりなのに、描かれているシーンが非日常的な現実にはありえないようなシーンが描かれるなど、絵の持つ異様な迫力が観るものに迫ってくることこそ、最大の特徴だと思います。また、女性の描写については比類なく、面長で陶器のような肌の美しい女性がソフトフォーカスのレンズを通したような描写で描かれ、匂うような官能性が観るものを魅了しているのです(このような特徴はこの連載で紹介してきたヘンリー・J・フォードの挿絵にも通じるものがありそうですね)。
"シャロットの女"はそんな彼の代表作です。このテーマ、実は違った時期に描かれた3枚の絵が存在します。今回の企画展で紹介されたテートブリテンに保管されているのがもっとも最初に描かれた"シャロットの女"で、1888年の作品です。その後も、1894年、1916年にも同じタイトルの作品を描いています。そもそも"シャロットの女"とは詩人テニスンが書いた詩を題材に描かれた作品です。アーサー王伝説の「ランスロットとエレーン」のエピソードをもとにした作品で、次のようなストーリーです。「外界を直接見たら死ぬ」という呪いをかけられてシャロット島という中州に建つキャメロット城に幽閉された女工が、窓の外の風景を鏡に映してながめながら日々織物を織りながら暮らしています。そんな生活に飽き飽きしていたある日、外を通りかかった凛々しい甲冑姿のランスロット卿を鏡を通して見てしまい、その姿を追ってついに直接外の世界を見てしまうのです。その瞬間呪いが発動し、織物の糸は千々に乱れ、鏡はひび割れてしまい、女はランスロットの元へ向かう小船の中で息絶えてしまうという物語なのです。さらに同じ題材をもとにテニスンは『国王牧歌』という詩も書いています。「アストラットの百合の乙女」と呼ばれる美しい娘エレーンで、騎士ランスロットを恋するあまり息絶えて、父や兄弟によって遺体を小舟に乗せられ、キャメロットの城のアーサー王のもとに流されていくという内容です。元は同じエピソードから生まれているのですが、"シャロットの女"の方がヒロインに名前もなく、呪いという要素も加わっているだけに、より自由な創作といえるでしょう(ちなみにこのエピソード、モンゴメリの『赤毛のアン』の中で、アンが小船で溺れそうになるというエピソードで演じていたのがテニスンのこの詩なのです。高畑監督が手がけたテレビアニメ版でも第31話「不運な白百合姫」で描かれています)。
このふたつの詩をもとにして、夏目漱石は、1905年にアーサー王伝説を自ら短編小説に書き下ろした「薤露行(かいろこう)」という短編を残しています。ここではシャロットの女のエピソードは第2章に、エレーンのエピソードは第5章に用いられています。(ただ、同じ舟に横たわるというエピソードを避けるためか、シャロットの女の方は城の中で息を引き取ることに変えられています)。これは、あくまでも妄想ですが、英国留学から帰って2年というタイミングを考えるとこの小説を書かせた動機は、英国留学でアーサー王伝説やテニスンの詩を知ったことには違いないと思いますし、もう一歩踏み込んでテートブリテンで見たウォーターハウスの"シャロットの女"を観て、すっかり魅せられてしまったからと考えることもできるのではないでしょうか。
夏目漱石や宮崎監督が衝撃を受けて、その後の創作に影響を与えた、ウォーターハウスの"シャロットの女"こそは真の意味での通俗文化の源流といえるのかもしれません。監督はこの絵に対し「なんという崇高な通俗さだ」という感嘆の言葉を送っているのですから。
John William Waterhouse 1849-1917
予断ですが、ウォーターハウスの"シャロットの女"の一枚が、今年の春から夏にかけて来日するそうです。先日、「夏目漱石の美術世界展」という美術展の一枚として来日することが発表されました。ウォーターハウスをはじめとしてミレイやターナーもやってくるようです。3月広島、5月東京、7月静岡と全国巡回するようですから、興味がある方は是非ネットで調べてみてください(筆者も絶対見に行くつもりです)。